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2019年07月11日

ジョン万次郎について 後編

こんにちは、スタッフのミドリです( ◠‿◠ )
鳥島一の有名人、ジョン万次郎の生涯についてのレポート記事も今日で最後になります。今回は後編です。

ジョン万次郎について 後編

アメリカから戻ろうにも、鎖国状態の日本。1851年、万次郎達はまずは琉球、現在の沖縄県に上陸します。

沖縄県は当時、島津斉彬が治める薩摩藩領だったので、番所で尋問後、薩摩本土(現在の鹿児島県)に送られました。

そこでも取調べを受けたわけですが、島津斉彬は「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好んでいました。

元々開国と富国強兵が必要であると理解していたため、万次郎らは実際には手厚く迎えられたそうです。

47日間の短い間に、万次郎は身につけた知識を惜しむことなく、薩摩藩に伝えました。

しかし当時はまだ黒船来航前の鎖国真っ盛り。その後送られた長崎奉行所では、踏み絵を始め、鎖国を破った罰として9ヶ月もの牢屋生活が待ち受けていたのです。

万次郎が故郷の土佐藩(現在の高知県)に戻れたのは1853年の事。漂流の日から11年もの年月が経っていました。

土佐藩でも万次郎の経験は重要視されており、高知城下の藩校「教授館」の教授になりました。また彼の漂流記は瞬く間に広がり、多くの大名や有力藩士の目に留まりました。

そしてペリーが来航すると、アメリカの情報を欲していた江戸幕府に招へいされて、幕府直参というエリートコースを進む事になったのです。

万次郎は翻訳や通訳、造船指揮、人材育成という幅広い分野で大活躍しました。

しかし立場のないオランダ語通訳にスパイ疑惑をかけられ、ペリーら重要人物の通訳・翻訳の仕事から外されてしまいます。

それでも実際には、日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言し、尽力したのでした。

そして1860年、万次郎はかの有名な「日米修好通商条約」の批准書交換のため、アメリカに行く事に。

使節通訳 兼 技術指導員として、勝海舟が艦長を務め福沢諭吉も乗船した咸臨丸に乗り込みました。

この時、勝海舟が極度の船酔いのため、万次郎が代わって船内を取り仕切ったと言います。

万次郎の知識を必要とする志士は多く、万次郎に英語や航海術を学びに来る者は多かったそうです。

そうでなくても、万次郎の漂流記を読んだ同じ土佐藩の坂本龍馬は思想に大きな影響を受けており、明治維新の陰の功労者ともいえるのです。

日米和親条約、日米修好通商条約、そして坂本龍馬ーー近代日本の運命の分岐点となったこれら全てを下支えしたジョン万次郎。

彼が鳥島に漂着する事がなければ、今の日本はなかったかもしれません。

鳥島は私達日本人にとって「運命の島」であり、究極のパワースポットとも言えます。

2019はままつ少年の船では、幕末の歴史を動かした鳥島のエネルギーを、是非感じ取って下さいね!




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Posted by はままつ少年の船 実行委員会 at 00:20│Comments(0)2019コラム
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