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2016年03月26日

浜松青年会議所の歴史

こんにちは、実行委員長の浅岡です


本日は、はままつ少年の船を主催する
公益社団法人 浜松青年会議所を紹介させてください




この映像は、先日
開催されました
「公益社団法人浜松青年会議所 創立65周年記念式典」
で使用した映像です。

※※※長文ですが、我々の紹介です※※※※

青年会議所の歴史は1900年代初頭にまで遡ります。
アメリカ合衆国ミズリー州セントルイスの若き銀行員が、
1910年に修道院を拠点に結成した青年クラブが発端です。

当初は古いダンスステップの保存が目的でしたが、
やがて会議の時間が増えていき、社会貢献に特化・発展していきます。
この青年活動は後に「Junior Citizens(若い市民)」と名を変え、
同じ志を持った団体が合流していきました。
JCの輪はアメリカ全土に広がっていき、1920年、ついにアメリカJCが誕生したのです。
アメリカJCによって開花された青年のエネルギーは世界中に広がりました。
1944年、中南米8か国に散らばるJCが一つになるべく発足したのが、国際青年会議所「JCI」です。
JCIは後に約100ヶ国が加盟する世界最大級の青年団体に成長しました。

日本JCのルーツは国際青年会議所とは全く関係がありません。
戦後の日本を憂う志高き青年達によって生まれました。
日本のJCの歴史は1949年9月3日、当時28歳の三輪善雄氏が青年会議所の前身、
東京青年商工会議所を創設した事から始まります。
JC設立目的は
「祖国日本の復興のため」でした。一言で言えば簡単ですが、当時の日本がどれ程絶望的な状況だったのか、
私達は想像できるでしょうか? 戦争で日本中が焼け野原となり、
家を失い、多くの国民が今日食べるご飯もままならない過酷な生活を送っていました。
1日も早い復興を求められているにも関わらず、力のあるシニア世代は追いやられ、
とても舵取りができる状態ではなかったそうです。
敗戦国のレッテルを貼られ世界中から蔑まれている日本を、
若者だけで立ち上がらせなければならなりせんでした。
ドン底から這い上がるために、どれだけの熱意と力が必要だったでしょうか?
東京で上がった希望の狼煙を見て、全国各地それぞれの地域の若者達が立ち上がり、
次々とJCが立ち上がりました。
1951年には東京、大阪、前橋、函館、西宮、名古屋、旭川、広島の各JCが結集し、
日本JCが誕生します。
当時は易々と海外に行ける状態ではありませんでしたが 、
日本JCは早速その年の世界会議に数名を派遣し、
とうとうJCI加入が承認されたのです。「JCIには民族の差別はなく、全ての青年達のためにある。
かつての敵国も受け入れようではないか」敗戦国の看板を外し、
日本が世界に認められた瞬間でした。
事実、翌年の4月に日本は晴れて独立を果たしました。

浜松青年会議所は日本JCがJCIに加入した1951年、
日本JC第2回理事会にて認証番号10番を授かって創立されました。
創立総会時の会員数は僅か18名だったそうですが、1人また1人と賛同者が増え、
第10期には100名近くにまで達したそうです。当時の年会費は3000円でしたが、
現在の10倍以上の価値があり、自分の生活で精一杯の中で支払うには相当な大金でした。
それでも自身よりも愛する故 郷浜松のため、
そして日本の復興のために、涙ぐましい努力を重ね続けた浜松JC。
そんな先輩方の汗と涙が、
僅か10年で戦前の経済水準を凌駕させ、それからの高度経済成長の一端を担った事に間違いありません。
その後もオイルショックや少子高齢化等、日本を取り巻く環境が目覚しく変化していく中で、
「浜松交響楽団設立」、「ちびっこジャンボリー」や
「ソーラーカーレース」、「東日本大震災募金活動」を始めとする時代に沿った事業を次々に展開していきました。

日本JCの全国大会も2度も主管しました。これは全国でも数える程しかありません。
そんな浜松JCの意欲的な活動は静岡県全体に波及し、
浜松JCから20の県内LOMが派生しました。
これがJCと浜松青年会議所の歴史です。


この歴史と伝統を継承して
2016はままつ少年の船は、出航します
船首からの眺め


一緒に乗船して頂ける
18歳以上の健康な男女を募集しています。


詳細は、上記をクリックしてください!!


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Posted by はままつ少年の船 実行委員会 at 13:59│Comments(0)2016
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